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四次元秘密手帖
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  フレディVSジェイソン
Date:
フレディとか、ジェイソンって、日本人は日本語の感覚で思考する
から「フレディ」という化け物と、「ジェイソン」という化け物が
戦う映画なんだなあ、と認識できるが、よく考えてみると、これっ
て日本流に言うと「孝夫VS義郎」とか「ミネ子VS友子」みたい
なタイトルなわけで、よくアメリカ人はこんなタイトル見て笑わな
いもんだなあ、と。・・・・ん。阿呆か私。



「エルム街の悪夢」は、鳴りもの入りで公開された第1作が好きで、
あとはホラー映画の続編とか消化試合ってついていけないところが
あるため観ていなかったのだが、予備知識の不足も、今回の映画を
観る上では特に困らず。
「13日の金曜日」シリーズに至っては、知識らしいものも殆どな
かったのだが、ジェイソンというキャラクターを教養的に理解でき
ていれば、これもまた違和感なく楽しむことが出来る。

この映画の監督、えーと、誰だっけ、ロニー・ユーか、あ、「チャッ
キーの花嫁」の監督か、そうか。そのユーは、なかなか観客を楽し
ませる親切な映画を作る監督ではないかしらん。

とにかく双方ともに「不死身」が売り物のキャラクターで、しかも
フレディなどは夢の世界の住人だから、どうやって決着をつけるの
かと思っていたら、そんなことに疑問を感じていた私が馬鹿だった。
とにかく、何もかもが行き当たりバッタリで、行き当たりバッタリ
に登場人物が行動し、行き当たりバッタリにフレディとジェイソン
が喧嘩し始め、行き当たりバッタリに決着がついてしまう。

普通なら、こんな映画を観せられると、観客がバッタリしてしまう
のだが、ここが面白いところで、このホラー映画の二大巨頭の戦い
ぶりが、アイデア萬斎(あ、舞ってしまう!)の、バイオレンス萬
斎(あ、また舞ってしまう!)の、サービス精神たっぷりに大活劇
してくれるので、全然退屈しないのだ。
もう、飛ぶわ、走るわ、もげるわ、刺さるわ、吹き出すわ(笑)。
デタラメをやり過ぎても絵になってしまうこの二人。なんと素晴ら
しいキャラクターなのであろう。

有名キャラの対決物の面白さは、大抵どちらかのキャラクターに肩
入れすることで、観客はカタルシスを得ることにあるが、この映画
の場合も、人殺しの気狂いみたいな連中が殺し合っているだけなの
に、やはりそういう感情移入が沸き起こってしまう。
私の場合は、狡猾ですばしこいフレディより、愚鈍で馬鹿にしかみ
えないジェイソンに肩入れしてしまったが、やはり人間というのは
どちらかというと自分に近いものに愛情を抱いてしまうのであろう
か(笑)。


まずは、企画的に大成功。作品的にも充分満足度高し。
この手の企画はもっともっとあっても良いと思うので、どんどん映
画化に漕ぎつけて欲しい。
さしあたり、なかなか実現しない「エイリアンVSプレデター」な
んかが当面の愉しみかな。



ロバート・イングランドがよく動くなあ、ジェイソンのおかん懐かし
いなあ、あ、鼻が!(笑)、あ、首が!(笑)、あ、尻が!(笑)。
この映画のパンフレット、指紋がつかないようにコーティングされて
ていいなあ。ちょっと高いけど。





  座頭市(北野武版)
Date:
勝新太郎以外の俳優に座頭市は演じられない。
パロディは成立しても、本物にも、本物以上にもなれない。

眠狂四郎は、確かに市川雷蔵の当り役だったが、松方弘樹も、田村正
和もそれぞれに自分の持ち分で演じることが許された。

丹下左膳は大河内伝次郎に始まり、月形龍之介、阪東妻三郎、大友柳
太朗、丹波哲郎、中村錦之助、高橋幸治が続々と演じ、それぞれにファ
ンが存在する。今度、豊川悦司がチャレンジするという話もある。

鬼平も、水戸黄門も、大岡越前も、拝一刀も、梅安も、みんな多く
の役者が演じてきた。

しかし、座頭市は勝新太郎以外に演じることは出来なかった。
何故か。盲目で居合いの達人という設定に、必要以上の技量を役者に
求める役柄だからか。にぎり飯を口一杯に頬張り、口の周りを米粒だ
らけにしてニカッと笑うあどけない素朴さを演じられる俳優がいない
からか。
どれも、違う。そんなものは、映画のテクニックや修練でなんとかな
るのである。勝新太郎にしか座頭市が演じられなかった理由は、もっ
とシンプルだ。役者・勝新太郎そのものが座頭市だったからだ。半生
をかけてひとつの役に打ち込み、執念に似た気迫で座頭市を演じ続け、
座頭市とともに死んだ勝新太郎の芸に、誰が生半可な気持ちで近づけ
るというのだ。

北野版座頭市が内外で高い評価を得、私などよりも、もっと若い映画
ファンがこの映画に沸き立ち、あのかつての座頭市を知っている世代
までもが、大らかな気持ちで新しい伝説の誕生を喜んでいる今だから
こそ、はっきりと断言する。


勝新太郎以外に座頭市を演じられる者はいない。
もう本物の座頭市は死んだのだ。



ん。すっきりした。
言いたいことを言ったので、北野版座頭市について感想を。
これはアートでもなんでもなくて、ただ単純に大衆芸能を少しひねっ
ただけのありきたりの映画だ。
時代劇の普遍的な要素を限り無くべたべたに盛り込んだだけの、観る
者を拒まない映画だ。
と、思っていたら、同じようなことが値の張るパンフレットに書いて
あった。むむむ。
かつての座頭市が大衆に愛され続けてきたことと同様、北野武は正攻
法を基本として、時代劇というジャンルの裾野をなぞっていく。これ
ほど観客に近寄ったキタノ映画が
今までにあっただろうか。型破りはあるが、それをネタとして観客を
楽しませ、驚かせて北野武は悦に入っているのである。観ているこち
らが楽しいのだから、作り手もさぞかし愉しいのだろう。
カンヌは日本の時代劇の美学を評価したが、場末の演芸場でおばちゃ
ん連中を熱狂させる、大衆芸能のいかがわしい楽しみさえも理解して
いたのだろうか。そうでなければ痛快な話だし、解っていたとすれば、
それは真にこの映画の本質を理解した見事な観賞眼であったというほ
かない。


目にも止まらぬ疾風の居合いは、見事なカットワークでビートたけし
を達人にした。本人の才もあったろうが、編集の力はかくも絶大なも
のかと息を呑んだ。
指が飛ぶ、血飛沫が弧を描くといった流血の殺陣は、かつての座頭市
ですべてやり尽くされたことであるが、この映画ではそれに躙り寄っ
ている。市が起こすスパッという剣撃の風は、ズドンという重さをと
もなった強剣に姿を変えているが、人の肉が斬られた瞬間観客が味わ
う危うい恍惚感は、演じ手、作り手を変えても受け継がれている。
浅野忠信演じるスゴ腕の浪人が十二人斬りをやってのける殺陣では、
一瞬にして刀の感触を鉈のそれに変える「剛」の演技が見事だ。
それを表現する北野演出も、ありがちなワンショットで何十人、な
どというあざとい選択をせず、寄って寄って寄り倒すカメラワーク
で魅せる。


意外といえば意外、しかし、オチ付きの座頭市をやる以上、これし
かオチはないだろうというオチを観せられたあと、話題のゲタップ
ダンスが賑やかに始まる。
時代劇にタップダンスの組み合わせとは、確かに強烈な齟齬感はあ
るが、それが音楽と合わさって、実に映画的な「うねり」となり、
引いた視点で観てもそれなりに楽しい。問題は私がそれを「引いた
視点」で観てしまっていることだ。
これは、別に北野演出特有の「照れ」がもたらしたものでも、映画
そのものの構成が、やや唐突に過ぎたという理由からではない。
実はこの時、個人的なことではあるが、生理的欲求が我慢の限界に
達していたため、さっさとこの映画終らないものか、などとずっと
思い続けていたからである。
画面で楽しそうに踊る町民衆を眺めながら、自分は決死の思いで映
画を見届けようと、そわそわもじもじ、時に握り拳を額に当てなが
ら辛抱をしていたため、もはや勝新の偉業がどうの、北野武のスカ
シっぷりがどうのと、あれこれ思いをめぐらす余裕すらなかったの
である。
当分、この映画と、光り輝く希望に満ちたトイレのイメージが切り
離されることはないだろう。
映画館に時間ギリギリで駆け込むことだけは、もう二度とするまい。




あんまり見かけない顔の役者が多いなあ、この映画。と思ったら、
そんなところに三浦浩一が。効果音が絶大な効果を上げていて、や
や、美術が弱い。笑えないギャグも狙いのうちか。ラストの字幕で
妙にガダルカナル・タカの字面が長いぞ、ってそんなことで笑うか、
俺。お、今回は(笑)濃度低い文章になったな。
それにしても破裂するかと思った。






  陰陽師2
Date:
待ちにまった「陰陽師2」であった。
しかし、中井貴一(笑)を笑うためという私の邪な企みを察知したの
か、映画は期待したものと違う方向に走り去ってしまった(笑)。


とにかく野村萬斎がくるくると舞う映画である。
前作でもイヤというほど舞っていた野村萬斎であるが、今回はクラ
イマックスそのものが、野村萬斎の舞を必要としてしまっているの
で、ま、本人も好きで舞っているのだろうが、観ているこちらも、
好む好まざるに関係なく、その舞を凝視し続けるしかない。
おまけに、例によってエンディングのタイトルロールでも、とどめ
とばかりに舞が延々と映し出されるため、こちらの疲労感は相当な
ものだ。
「舞に舞う」とか「舞いまくる」とか「舞い放題」とか「暴れ舞」
とかいう表現が相応しいだろう。普段使わない言葉なんだけどなあ。


そんな野村萬斎の舞に、一番ダメージを受けたのは、この映画最大
の注目株であった、中井貴一(笑)である。
白眼さえ剥いて狂気じみた舞を舞う野村萬斎に対し、中井貴一(笑)
は、「必殺小首かしげ」とか、「ハイテンション高笑い」「何気な
い素振り」などの集大成的小芝居で応戦するのだが、無想の一撃で
放たれた萬斎の白眼には適わなかった。
その無念を察するや慟哭の極みであり、中井貴一(笑)観察者とし
ては、やがて彼も舞を体得してリベンジする日に期待をかけたい(笑)。
え、かけなくっていい?そうかなあ。そうだなあ(笑)。


中井貴一(笑)ムービーとしては不発に近いカタチになってしまっ
た映画だが、では、まともに観た時にどうかというと、これも、ま
た「もたつき感」がキツい映画であった。
前作には伝記的面白さと、時代劇特有のペーソスがバランスよく同
居していた気がするが、今回は何やら前者への偏りが強過ぎて、おっ
とりしている割には、ストーリィをひたすら追い続けただけで、
感情面が空洞化した映画になってしまっている気がする。
滝田作品としては、こういう風合いも珍しいように思うが、これは
「新味のある意欲的な仕事」として認めるべきなのか、否か。


東映で戦隊シリーズを手掛けてきた尾上克郎を中心とする特撮スタッ
フは、今回も健闘。ともすれば盛り下がる映画の流れを、危機一髪
ですくいあげている。
都がどっかーんと崩壊するシーンとか、安部晴明を包む結界の表現
とか、着実にスタッフ達は新しい技術をモノにし始めているようだ。
ただ、スサノオの完全体(笑)が、カーペンター映画のゴロツキか、
ロード・オブ・ザ・リングのサウロンの兵隊みたいなデザインなの
には笑ってしまった。こういうところで「あっ」と驚かす作品世界
に見合った意匠をみせないとなあ。


中井貴一(笑)敗れたりとはいえ、全力投球。野村萬斎飛ぶ、走る、
舞う、死ぬ、生き返る。深田恭子の背中って、あんまりエロくない
なあ、それに何故か今井絵理子の芝居が妙に腹立つぞ、あと、前に
も言ったけど、その苦悩フェイスでコメディリリーフやるか伊藤英
明(笑)。全体的にのんびり、部分的に奇妙な大活劇。東宝らしい
といえば東宝らしい映画だわなあ。





  鬼が来た!
Date:
どうも気にかかる映画だな、と思っていて、それでいて劇場公開時に
見逃して、レンタルビデオ屋で見かけたが貸し出し中で、1週間後同
じ店を訪れたら、ビデオそのものが無くなっていた。
その後、意地になって方々のレンタル店を駆け回ったが、全く見つか
らず諦めていたら、新しくオープンした近所の店にひっそりと入荷さ
れていた。
回収騒ぎにでもなったかと懸念していたが、まずは、地味過ぎてどこ
も積極的には仕入れていなかったのであろう。


太平洋戦争終戦直前、中国は華北の寒村に、何者かの手によって二人
の日本兵(一人は軍属の中国人通訳兵)が、麻袋に放り込まれて運び
こまれる。
彼らを匿うことになった寒村の人々は、戸惑いながらも二人を保護し、
幾度かのトラブルを越えて、やがて心を通じ合わせる。
元隊復帰を望む日本兵は、村人に一計を提案し、日本軍との接触に臨
むのだが・・・・というストーリィ。実話ではなく、全くの創作であ
るが、『太陽の少年』のチアン・ウェン監督が、意匠、考証ともに徹
底してリアルさを追求したため、生々しい臨場感に画面が張りつめて
いる。こんな戦争映画は久しぶりに観た。すごい。
正直、この監督の作品はこれが初見なのだが、今後公開が待機してい
る「大陸英雄」(中井貴一(笑)も出演することだし)を含めて、ど
れも一度観てみようかなという気にさせる。

捕らえられた日本兵の一人を演じる香川照之が、凄まじい気迫で役を
演じきっている。以前から注目していた俳優の一人ではあるが、こん
なに早く代表作と呼べる力演をみせてくれるとは思わなかった。
騒いでのたうちまわるほどに滑稽感を増す芝居に笑っていると、やが
てどえらいものを見せられてしまうあたり、あらためてこの役者に惚
れこんだ。

戦争の残虐さ、矛盾をストレートに、しかも目を覆いたくなるばかり
に正直に描いている作品なのだが、この作品全編に通底するものは、
優れてなお乾いたユーモアの感覚である。
日本流に言うと「おもろうて、やがて悲しき」というやつであるが、
こういう作風をキチンと、しかもドライに操れるセンスをもった映画
監督なら、私の場合は真っ先に岡本喜八を思い出す。「肉弾」などは
この「鬼が来た!」によく似た作風の映画だった。

この映画の前半から中盤にかけては、まるでコメディ映画を観ている
かのように可笑しい。観ているこちらは、それをただ漫然と笑ってい
るだけなのだが、ふと目線を変えると、その笑いが凶器になっていく
作意に気付いてゾッとさせられる。
つい笑ってしまう喜劇的演出に慣らされた観客は、やがて作品が残酷
な展開を迎えてなお、笑いから逃げることを許されない。
内通者として、ある中国人が処刑されるシーンでは、その残酷な様子
を描きながら、背後では崖をずり落ちるおっちょこちょいな兵隊が写
し出され、観ているこちらの口元が弛んでいる間に、画面は血飛沫を
上げる。
笑いが凶器であり、狂気であることを、観客は身をもって体験するの
である。
チアン・ウェン監督は、
「日常生活においては喜劇と悲劇は表裏一体であり、両者を別々にし
ては映画を撮れない」(公式ページのインタビューより抜粋)と語り、
しかし、「悲劇か喜劇かなんて(誰にも)決められないでしょう。」
と、受け手にその判断を託してしまう。
こちらの引きつった笑い顔の意味を、この監督は充分に計算しており、
そうした感情までを創作の一部に加えようとしているのではないか。
ちょっと、深読みかな。


日本人が観るには厳しい断罪をテーマにした作品ではあるが、戦争を
描くのに「何が悪か」を明解にしなければ、作品は混沌に飲まれてし
まう。
この「鬼が来た!」は日本人の戦争行為の非道を、創作ではあるがリ
アルな考証の集積によって甦らせ、そしてそれを断罪し、さらに戦争
に加わったもの全てを笑いものにし、最後にもっとも可哀想な一人の
中国人を犠牲にして幕を閉じる。
その中国人を演じているのは俳優経験もある監督自身であり、もっと
も死をおそれ、小心で、善人で、内罰的なキャラクターであった。


後味は悪いが、悪魔的に映画のテクニックを操る作品に出会した。
これは収穫であった。ちょっと大事にしよう。



作意的なものか、こちらの感覚が麻痺したのか音楽が印象に残らず。
村落のセットのリアルさ。香川照之のよだれ。通訳を演じるユェン・
ティンの熱演。モノクロ画面に素朴な可愛さが映えるチアン・ホン
ボー。切り詰めて無駄が無く、サクサクと進むテンポの良さ。「お
兄さん、お姉さん、新年おめでとう!」。





  呪怨(劇場版)
Date:
わからん。
さーっぱり、わからん(笑)。

以前ビデオ版は、無茶苦茶恐いVシネがあると聞いて観たんだけれど
も、それ以上に不明解な映画である。
ストーリーが前後しまくって、何がなにやらさっぱりついていけない。
ま、そういう構成の面白さを見せたかった映画なんだろうけども。
ついでに言うと、そういうのが判りやすいからといって、もっと面白
くなった映画ではないんだろうけど。

天狂紙一重、というが、ホラー映画なんかもその例えで言うと恐怖と
お笑いは紙一重であって、この映画の場合は一線を超えてしまった。
・・・・のではないか(笑)。
とにかく、楽しいのである。誤解を呼ぶかも知れないけれど、白塗り
のガキんちょとか、コキコキ肩こってそうな伽耶子さんとか、もう、
可愛くって、愉快で、いいキャラクターだなあと、ほっこり。
ほっこり、は言い過ぎか(笑)。

エレベーターの各階でひょいひょい顔を覗かせるトシオ君とか、どこ
から出てくんねんお前!みたいな登場の仕方ばっかりする伽耶子さん
には、是非今年の日本映画神出鬼没大賞を進呈したい。おめでとう!
権威はないけど、私が差し上げます。まだ未見の2でも頑張ってくれ
ていることを期待。

というわけで、この映画。
木で竹を接いだような難解な構成が鼻につくけど、実に多くの人々が
恐がったり、面白がったりしたようだから大衆娯楽としては良く出来
た作品のうちに入るのであろう。
化け猫映画や「おばけ映画」が3本立て何十円とかいう時代があって、
それを知らない我々の世代は、目一杯事前情報で盛り上がって、いそ
いそと「呪怨」を映画館の暗がりやビデオで愉しむ。これでいいのだ。
どの時代にも、こういう映画の愉しみはある方がよいのであって、そ
の意味でこの映画の「在り方」は決して間違っていない。
出来れば、もうちよっとだけ分かりやすいストーリーの方が良かった
気はするが、ウィークエンダーの再現フィルムをバラバラに観ている
感覚と考えれば、取り立ててそこを批判することは不粋かも知れない。

要は、恐かろうが面白かろうが、観にいこう!とか、やっぱり恐そう
だからやめとこう(笑)とか、思わせるだけの何かかが映画の周囲に
滲み出していればいいのであって、作品の出来不出来はまた別の問題
である。私の友人たちの反応を見れば、この「呪怨」にはそういうイ
カガワシイ気配みたいなものがあるようなので、充分力のある作品な
のであろう。
って、なんか持って回ったような、無理矢理認めているような、うー
ん、なんだかここまで書いたのを読み返すと、つまらんって言ってる
だけのような気がするなあ(笑)。
ジャンクフードみたいな映画なんていう便利な言い回しで、とりあえ
ず逃げとこう(笑)。


それにしても、安い作りで、金もうけしたよなあ。
大したもんだ(笑)。


奥菜恵にたかる黒猫可愛い。机の下のトシオ君可愛い。お布団からにゅ
にゅにゅと出てくる伽耶子さん可愛い。あ、クウガの刑事、あ、ゴー
ゴーファイブのゴーピンク。遠山って何だよ、遠山って(笑)あ、人
の名前か。ん?黒沢清・・・あ、師弟コンビなわけか清水崇。



  壬生義士伝
Date:
幕末とか、新撰組とか、実は全然詳しくないので、つまりは詳しくな
いということは、興味が向かないという結果なので、要するに苦手な
ジャンルなわけである。こういう映画は、本来は。

もちろん中井貴一(笑)観たさにレンタルしてしまったわけなんだけ
れども、結論から言うと、笑えない!
じゃなくって、思ったより満足した。

滝田洋二郎の演出は予想した通り、いきなりズバッと斬り込んで、スッ
と刃をひく、この映画の殺陣のような演出だ。要するに切れ味がいい。
あ、殺陣に対する僅かなこだわりも面白い。
実に理にかなった戦闘者の動きと、ダイナミックな特殊効果が効を奏
して、時々あっ、と唸らされる。
人を斬る痛みを伝えねばならぬ映画で、この迫真性は重要だ。血の出
ないチャンバラをやられてしまうと、テーマが浮かび上がってこない。
あんまり残虐でもメッセージが隠れてしまう。
滝田洋二郎は、そのへんをよく咀嚼して、バランスよく画作りを行っ
ている。細かい仕事に気がまわる、いい監督だ。
こういう積み重ねがきっちりしているから、「僕らはみんな生きてい
る」も面白かった。傑作だった。

主人公の吉村貫一郎は困窮に苦しむ家族を救うため、脱藩して新撰組
に入隊するが、命を惜しみ、金銭に執着することから、他の隊員に白
眼視されている。しかし、その剣の腕たるや暗殺剣として超一流の腕
前であり、新撰組で一、二を争う剣客・斎藤一とも互角にわたりあう。
この役どころを中井貴一(笑←は今回無しね。笑えないから)が、
飄然と演じている。まさに適役。方言も板につき、殺陣も力強く、何
よりも持って生まれた風貌が、役に染みついて我がものになっている。
彼の代表作と言っていいだろう。
斎藤一を演じる佐藤浩市とのコントラストもいい。
役者をわかった演出者の采配は、観ているだけで実に心地よいものだ。

激動の時代を、家族のために生きた吉村貫一郎。
彼の半生を描く本作は、当然冷厳な歴史の真実を、適度な捏造をもっ
て描いているのだが、私は、この映画の「ある部分」から以降を蛇足
と感じた。
そこで終っていれば、この映画は間違いなく自分にとって大傑作になり
得たと思うのだが、この不服な印象を今はぐっと飲み込んでおこう。
ひょっとすると、目線が変わってくれば、ここが一番大切な見どころ
になるかも知れない。
老後の楽しみのために、今は辛抱である(笑)

・・・・・変な映画感想文だなあ。


久石譲が骨太な音楽、やんちゃしないカメラワークも好印象。中井貴
一が笑えないかわりに三宅裕司の鼻の穴に笑いどころあり。別に笑う
映画ではないのだが、そんなことはともかく、夏川結衣ってこんな顔
だったんだなあ、初めて顔と名前が一致した(笑)。
遠くにチラッとみえるだけの伊藤英明、前から思ってたんだけど、君
は一体何星人なんだ。何をいつでもそんなに思いつめているのか(笑)
意外と突っ込みどころがないぞ。困ったなあ(笑)。



  ザ・リング
Date:
日本のアニメ作品や時代劇、怪獣映画なんかが、時々なんだか勘違い
したかのように欧米やおフランスあたりの映画に、やおら直截的な影
響を与えることが多い昨今、なにやら居心地の悪いような、それでい
て小気味いいような、わけのわからない作品が相次いで製作されてい
るわけだが、この「ザ・リング」などは、今まで持ち出されていなかっ
た「怪談映画」というジャンルにチャレンジしたという意味で、面白
い実験作ではなかったか、と思う。
ていうか、実祭にはそれほど観た後に何かを残す映画ではなかったか
ら、そういう理屈をくっつけてみただけなのだが。

個人的には、天然痘と両性具有と超能力と心霊と都市伝説をごちゃ混
ぜにして、ホラーと言う詭弁でくくった小説「リング」のちゃらんぽ
らんさが気に入らないクチなのだが、それをさばさばっと料理して、
都市伝説の具現化だけで纏めあげてしまった中田秀夫と高橋洋の映画
版は、実は最近の日本映画の中では、稀にみる傑作ではなかったかと
考えている。
この映画版って、ひょっとしたら日本映画で唯一「エクソシスト」の
怖さとカッコ良さににじり寄ったホラー映画なんではないか?


ちょっとほめ過ぎた。


で、この海外版。
極めて濃い系の映画の振りはしているが、実に薄味の凡作である。
これは演出者の技量とか、金がかかっている・いない、とかいう問題
ではなくて、おそらくはただ単に製作されたお国柄、つまりは風土の
問題であろう。

貞子がテレビからにゅにゅにゅっと、まろび出て来るシーンは、日本
版、海外版共通の「いちばん怖いシーン」なわけだが、これ、実は、
何やら得体の知れない女がテレビから飛んででることそのものが怖い
のではなくて、実はその場所が茶の間だから怖いんである。
アパートの薄暗い畳部屋のテレビで、そんな怪異がしれーっと起きて
しまうあたりが、実に不気味で気持ち悪いわけである。
小奇麗なモルタル作りの仕事部屋に貞子(サマラ)が現れても、あま
りに絵的に決まり過ぎてしまうため、今イチ不愉快な齟齬感みたいな
ものがにじみ出てこないのである。
つまりはシュールレアリズムとしてのコワ面白さが成立しないのだ。

しかし、おそらくはアメリカ人は、こういうシチュエーションでも十
分に怖がることが出来るのであろう。
これはもう生活環境の違いによるギャップとしか考えられないわけで、
まあ、こんなこと感じたのは筆者だけかも知れないから、断言はでき
ないのであるが、やはり「恨めしや〜」の怪談映画というのは、ねち
こくて、羽目を外せなくて、マゾヒスティックな日本人にしか作れな
いし、面白がれないジャンルなのではないかしらん。


日本版のラストの貞子の下三白眼のどアップが怖いのは、まさに狂女
に睨まれた時のゾッとする感覚そのものであるが、このアメリカ版に
は、そうした異形の者と突然対峙することになった主人公達の切羽詰
まった恐怖感がない。
貞子は「怨念」によって機能する奇形であるが、サマラは「未熟な憎
悪」を反復させるだけの孤児である。
両者の「怖さ」の質は、全く異質なものであって、ここにアメリカ版
の特長というか、日本人から観た弱点があるような気もする。

でも、これって原作の形骸をなぞって作ったものの割にはオリジナリ
ティがあるともいえるわけで、やはり怖かったり、面白かったりはし
ないけれども、ユニークな実験であったとは思うのである。


ナオミ・ワッツが割と好みのタイプで、息子役の少年の目の下のクマ
メイクが妙に気になって、サマラの親父の唐突な暴力に大笑い。
音楽は全く印象に残らず、サマラのデジタルワープ(笑)はちょっと
ドキっとした。
続編準備中とのことであるが、いっそ何万人もサマラがうぞうぞして
みたり、突き抜けて「ループ」の世界観まで行ってしまったら面白い
だろうな、なんて妄想もちょっとだけ。



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