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ごめんなさい
投稿者:にゃっ太 2009/03/08(Sun) 02:34 No.110[返信]  
サマヨエルさん、個人的な悪感情はもちろんありませんし、仏教に対して今のような考えに至ったのもこれが初めてです。どうやら私は人間が脚色しておかしくなってしまった”宗教”自体にフラストレーションが溜まっているようです。苦しんでいた私の何の役にも立ってくれなかったどころか、余計にしんどくさせられてしまいましたから。正直、現実のゴータマがどんな
人物であったか知る由もありませんが、伝説上のゴータマは嫌いです。キリスト教もイエスの教えではないと考えますし、私にとり矛盾だらけのキリスト教は仏教と同じく信頼できません。
ここで私が支離滅裂に仏教やキリスト教を否定しても建設的な話になりそうもないばかりか悪感情を生むだけなので、私は一度ここで退場する事にします。
いろいろご教示ありがとうございました。思ったとおりぶちまける事で、私自身、気が付いていなかった事が確認できて私にとっては有意義でした。 お気を悪くさせてしまったかも知れませんが、どうかお赦しくださいね。

私はこの話題では冷静に話し合える自信がありませんので、ネットで書き込むのはこれで最期にしようと思います。

お付き合いくださって有難う御座いました。
遅くなりましてすみません
サマヨエル 2009/03/13(Fri) 18:40 No.111
新たにやり始めたことのために遅れてしまいました。
申し訳ございません。

>どうやら私は人間が脚色しておかしくなってしまった”宗教”自体にフラストレーションが溜まっているようです。

この脚色ということですが、脚色しているのは何者なのか?ということもしっかり捉えておかないといけないでしょうね。

私自身にとりましてはこれまで一連の対話は悪いものでもなく、お話し出来て良かったと思っております。ありがとうございました。

>私はこの話題では冷静に話し合える自信がありませんので、ネットで書き込むのはこれで最期にしようと思います。

いずれ御自身が冷静に話せると思えるようになられた時には非常に意義深いお話を期待出来ると思っております。
勿論そうなるまでであっても、いつでも気の向いた時にいらして下さい。きっとその時にはそうなるべき意味があるのだと思います。
お待ちしております。


RE;四無量心観…
投稿者:にゃっ太 2009/03/08(Sun) 01:58 No.109[返信]  
サマヨエルさん、せっかくのご好意でご教示頂いているのに、申し訳ありませんが私にはだめです。失礼ですがこのようなものはまったく私の心に響きません。
何一つ不自由のない王家に王子としての身分で生を恵まれながら、文句ばかり言って妻子、家、職務に国、責任全て放棄して好き勝手に道楽修行しながら物乞いし、自分の物でない、この地からの恵みである乳粥を喰らい、その力で肉体をつないで(他力です)自分なりの結論を出してそれを真理として人生を否定するというつまらない男の屁理屈など私は受け入れる気がありませんし、まったく心に響きません。
瀬戸際にいる人間、崖ッ淵で必死に生きている者、正々堂々と生きている人にはこんな講釈は何の意味もありません。
先ほどNHKでアフリカで小児麻痺のハンデを負いつつも健気に生きる子供たちの特集をご覧になりましたか?片道40分も這って親方にイスの作り方を習いに行く。学校に行く金はない。家にはその日食べる物すら何もない。ただ物乞いをしたくないし、手に職をつけて母親に楽をさせてあげたい…皆がそう語りました。自分の運命を嘆くわけでもなく、ひねくれた素振りひとつない汚れのない魂でした。母の愛に感謝し、小さな事ひとつひとつに感謝し、きれいな目で幸せそうに笑うあの子たちと比べて見れば、ゴータマの教えなど何の価値も私には見出せません。何一つ不自由のない王家に王子としての身分で生を恵まれながら、文句ばかり言って妻子、家、職務に国、責任全て放棄して好き勝手に道楽修行しながら物乞いし、自分の物でない、この地からの恵みである乳粥を喰らい、その力で肉体をつないで(他力です)自分なりの結論を出してそれを真理として自分自身の人生ばかりか他人の人生や世の中全てを否定するなどとは、愚か者のド屁理屈ではありませんか。私にはこの者から学ぶべき事柄は何一つ認められません。

世間の常識などというものは時代や地域などにより変わりますが、人間の良心というものは生まれつき備わっているものでしょう。赤ん坊や、猫や犬でさえ、良い事をすれば嬉しそうだし、良くないことをしてしまった時は良心の呵責から態度に表れます。親分格にある立場の者が自分の群れを顧みずに責任放棄して立ち去るというのは動物にも劣る行為です。在家のまま修行し責任を果たしていれば、ゴータマの持論は違ったものになったはずです。

私事なので控えてきましたが、私の恩師は奴隷の孫という身分から王にまで身を起こしながら自分がどこから来たのか決して忘れる事なく、37歳で王座から身を引いた後、71歳でこの世を去る日まで、ただの一日も休日というものを取らずに助けが必要な人たちのために一生を捧げて働き通した聖人でありました。 曰く、世の中には今この時も苦しんでいる人たちが大勢いるのにどうして自分だけが呑気に休んだり遊んだりしていられようか。そんな生き方はSIN(罪)だ。神から受けた恵みは然るべきところへ還元せねばならない。 恩師の一番の後悔は、彼の愛した父親の生前、一度も口に出して愛しているよ父さんと伝えてあげれなかった事だったのだそうです。これを私は二十年も前に恩師に聞いており知っておりました。重度のアルツハイマーと末期癌で死の床についた恩師の元に駆けつけた私を抱きしめ、誰も認知できなかった恩師がこの私だけに何を伝えたと思われますか? 「おまえを愛しているよ。いつでも愛している。私はいつまでもおまえのそばにいる…おまえは私の息子だ。ありがとう…」私の名を呼び、私を抱きしめて何度も何度も言ってくれたのですよ。そして、「もうすぐ私は別のところへ行く。私は素晴らしい人生を過ごした。私は神をとても愛している。」「さっき大勢の人たちと上へ行って来たが、おまえも来たいか?……etc.etc.」  私にだけいろいろな話をしてくれました。そしてそれはマグダラのマリヤとユダの福音書に通じる内容だったのです。私は恩師に神の子イエスキリストを見たのですよ。 私にはゴータマから学ぶ事など何一つありません。彼の言うところなど私でも知っています。 私がグノーシス文書や密教に惹かれたのは、もう既にこの世にはいない私の愛する人たちと交信できるのではないかと希望を持ったからに他なりません。 ですが、私にはグノーシスも密教も必要ありませんでした。私は上にいる誰かさんにとても愛されているのを実感していますし、この人生を私として与えられた事を本当に心の底から感謝しているのです。この40数年の半生でこのちっぽけな私が出会いを許されたかけがえのない人たち、また天使たち、愛する彼らと分かち合えたかけがえのない経験に感謝せずにおれましょうか。   私が恩師から受けた愛は、彼に教わったとおりの仕方で還元しています。誰も見ていないところで、それを本当に必要としているところへ分け与えるのです。そして私にこの人生をくれた神を信頼し感謝を忘れない事です。 私は愛に恵まれた人の子です。行く先も決まっています。私を愛してくれて待っていてくれている天使たちが大勢いるのですから、迷子になるわけには行かないのです。蛇やムカデに教わる事は何もありません。 人生とはかけがえのないものです。 道を逸れて何年間も宗教の屁理屈に付き合って浪費してる暇など私にはありません。 私は恩師が私に残してくれた道標を頼りに家路に着きます。 



サマヨエルさん
投稿者:にゃっ太 2009/03/07(Sat) 14:00 No.104[返信]  
いろいろお話できてよかったです。
私の心の真中に巨大な怒りの塊があり、どうしようにも持て余しておりましたが、少しずつ落ち着いてきました。

61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。

この教示にはこれから従おうと思います。私の知るところは彼らの知るところに何も劣らないと知りました。


>211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。

誰の言葉か失念しましたが、一キリスト者の言葉です。
「愛する者に出会い、それを失う事は、初めから出会わず愛さなかった事に勝る。(愛は永遠であり消え去る事はないからである。)」


    以下は恩師が私にくれた言葉です。これを受け入れるのに20年以上かかりましたが、今は迷いがありません。



あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

私としてお勧め出来ること
サマヨエル 2009/03/07(Sat) 16:06 No.108
にゃっ太さんが仏教に帰依出来ないとしても、お勧め出来る仏教の修行があります。
特に神あるいはキリストの愛といったものに適った生き方をしようとされている方にとってはその道を歩む上でも有益なものであると思います。

是非、四無量心観というものをお調べになってその実践を試して御覧頂ければと思います。
限定された愛を超えて分け隔て無き無量の愛に至ることの大切さがわかり、仏陀に愛が欠けるなどとんだ見当違いであったと気付かれることと思います。


ダンマパダ…
投稿者:にゃっ太 2009/03/07(Sat) 13:16 No.103[返信]  
確かに参考になる知恵ですが根本的にマイナス思考に過ぎると感じます。私には悟りに至った境地だとは受け取れません。これは私には退屈な境地です。私が行きたいのはそこではありません。

ちっぽけな人の子の悟りなど、井の中の蛙の独り言の如く空しいものです。自分だけを拠り所にしろと教えるゴータマの教えは、そこに無責任さ、無神経さ、思い上がりがあり、完全な真理とは成り得ない。そこに愛がないからだと思います。妻子を捨てた身勝手な男の辿り着いた境地は大事な物がごっそり欠けています。キリストはこれを最も重んじて説きます。 法は愛に次ぐものであり、愛が欠けた法は空しいものです。

人は自分に降りかかる災難や試練には開き直れても、自分自身ではなく、その愛する者が打たれた場合、自分には何も出来ない事を思い出し、無力な自分の思い上がりを痛感し、己の愚かさ、弱さを思い知ります。 ここへ来て頼れるのは”神”だけです。最期には呪う対象も神だけしかいません。”神”を信じた者は迷いがありません。信頼しているので自分が最善を尽くした後は神に意思に委ね全てを任せるしかないと知っているからです。



神とは何か。神とは愛であり、法を司る意思です。+と−の間、陰と楊の間に働く存在です。三位一体思想はここから来ています。この意思の存在を善と捉えるのがミトラスの教えでありキリストの教えです。この存在に気付かない、もしくはこれを否定する、悪と捉えるのが仏教であり現代グノーシス思想だと思えます。

白紙に一筆、無から点が一つ始まった時点で個が(子が)誕生した。これを無に帰すのは自殺する事、死を選ぶ事にはならないでしょうか。



私は以下は彼が本当にこれを云ったのであればこれはゴータマの思い上がりに他ならないと見ます。これでは神の警告に逆らい、蛇の言うとおり禁断の身を喰らって死んでしまうという旧約聖書の伝承どおりに思えてしまいます。

   153
Aneka jâti samsâram sandhâvissam anibbhisam  
    アネーカ ジャーティ サンサーラン サンダーヴィッサン アニッビサン
    わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れ無益に経めぐって来た、

  Gahakârakam gavesanto dukkhâ jâti punappunam. 
 ガハカーラカン ガヴェーサントー ドゥッカー ジャーティ プナップナン
 …家屋(この五執蘊と言う身体)の作者をさがしもとめて…。
  あの生涯この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

154
  Gahakâraka ditthosi' puna geham na kâhasi,     
 ガハカーラカ、 ディットーシ プナ ゲーハン ナ カーハシ
 家屋の作者よ!汝の正体は見られてしまった。
汝はもはや家屋を作ることはないであろう。

  Sabbâ te phâsukâ bhaggâ gahakûtam visankitam 
 サッバー テー パースカー バッガー ガハクータン ヴィサンキタン
 汝の梁は(煩悩)すべて折れ、家の屋棍は(無明)壊れてしまった。

  Visankhâra gatam cittam tanhânam khayam ajjhagâ.
 ヴィサンカーラ ガタン チッタン タンハーナン カヤ マッジャガー
 心は形成作用(行)を離れて、渇愛を滅ぼし尽くした。


まずありのままに見ることが大事だと思います
サマヨエル 2009/03/07(Sat) 15:48 No.107
>確かに参考になる知恵ですが根本的にマイナス思考に過ぎると感じます。私には悟りに至った境地だとは受け取れません。これは私には退屈な境地です。私が行きたいのはそこではありません。

繰り返しになりますが、にゃっ太さんがマイナス思考に改変してるだけで、私が説明しているのと違うものを想定していらっしゃるのですから話は噛み合わなくなってしまいます。
にゃっ太さんが考えていらっしゃるようなその退屈な境地というものなど仏弟子である私にとっても目指すところではありません。

>ちっぽけな人の子の悟りなど、井の中の蛙の独り言の如く空しいものです。自分だけを拠り所にしろと教えるゴータマの教えは、そこに無責任さ、無神経さ、思い上がりがあり、完全な真理とは成り得ない。そこに愛がないからだと思います。妻子を捨てた身勝手な男の辿り着いた境地は大事な物がごっそり欠けています。キリストはこれを最も重んじて説きます。 法は愛に次ぐものであり、愛が欠けた法は空しいものです。

それは全く知識も経験も不足したところからによる無責任さ、無神経さ、思い上がりによる結論でしょう。

>人は自分に降りかかる災難や試練には開き直れても、自分自身ではなく、その愛する者が打たれた場合、自分には何も出来ない事を思い出し、無力な自分の思い上がりを痛感し、己の愚かさ、弱さを思い知ります。 ここへ来て頼れるのは”神”だけです。最期には呪う対象も神だけしかいません。”神”を信じた者は迷いがありません。信頼しているので自分が最善を尽くした後は神に意思に委ね全てを任せるしかないと知っているからです。

>神とは何か。神とは愛であり、法を司る意思です。+と−の間、陰と楊の間に働く存在です。三位一体思想はここから来ています。この意思の存在を善と捉えるのがミトラスの教えでありキリストの教えです。この存在に気付かない、もしくはこれを否定する、悪と捉えるのが仏教であり現代グノーシス思想だと思えます。

やはりにゃっ太さんの思考の中ではそうなんでしょうけど、客観的には他者と共有出来る普遍性が感じられません。

>白紙に一筆、無から点が一つ始まった時点で個が(子が)誕生した。これを無に帰すのは自殺する事、死を選ぶ事にはならないでしょうか。

ですからそれはにゃっ太さんが仏教について勝手にそのようなものだと誤解して決め付けてるだけに過ぎません。
初歩的誤解であり、その程度のレベルでの話しか出来てないのです。自身がそこに留まっていることを認識する必要があると思います。

>私は以下は彼が本当にこれを云ったのであればこれはゴータマの思い上がりに他ならないと見ます。これでは神の警告に逆らい、蛇の言うとおり禁断の身を喰らって死んでしまうという旧約聖書の伝承どおりに思えてしまいます。

>   153
>Aneka jâti samsâram sandhâvissam anibbhisam  
>    アネーカ ジャーティ サンサーラン サンダーヴィッサン アニッビサン
>    わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れ無益に経めぐって来た、

>  Gahakârakam gavesanto dukkhâ jâti punappunam. 
> ガハカーラカン ガヴェーサントー ドゥッカー ジャーティ プナップナン
> …家屋(この五執蘊と言う身体)の作者をさがしもとめて…。
>  あの生涯この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

>154
>  Gahakâraka ditthosi' puna geham na kâhasi,     
> ガハカーラカ、 ディットーシ プナ ゲーハン ナ カーハシ
> 家屋の作者よ!汝の正体は見られてしまった。
>汝はもはや家屋を作ることはないであろう。

>  Sabbâ te phâsukâ bhaggâ gahakûtam visankitam 
> サッバー テー パースカー バッガー ガハクータン ヴィサンキタン
> 汝の梁は(煩悩)すべて折れ、家の屋棍は(無明)壊れてしまった。

>  Visankhâra gatam cittam tanhânam khayam ajjhagâ.
> ヴィサンカーラ ガタン チッタン タンハーナン カヤ マッジャガー
> 心は形成作用(行)を離れて、渇愛を滅ぼし尽くした。

私はあなたが本当にあなたが信じる道を正しく歩み通したら、今仰っているような主張は間違いであったと知ることになると思えてなりません。



無題
投稿者:にゃっ太 2009/03/07(Sat) 10:32 No.102[返信]  
(人間ダンは洞窟だったかトンネルだったかで死に、そこへセブンが乗り移ったはずです。)


教理をいくら追求していっても、それだけでは仏道の本質にたどりつけないように、
いくら境涯を追求していっても、仏道の本質にたどりつくのは難しいと思います。
仏の仏たるゆえんは何なのか、その根幹を真に得なければ、真に仏と成ることはできますまい。
書いて字の如く、人が無になると書いて仏と読めますが、この一文字が全てを示していませんでしょうか。

私としては人が無に帰す道を行きたいとは思いません。 ノーシスに愛がないとしばしば聞かれますし、私自身それは実感しました。ですがそれは他ならぬ仏道にも通じる事でしょう。 キリスト教においては愛は決して渇愛ではなく最も重要な事柄であり、また自己はエゴではありません。サマエル氏はアストラル界において仏教寺院にて僧侶にたいして仏教とキリスト教は互いに補い合うものだと主張し、僧侶はそれに同意したのではありませんでしたか?

私たちは生まれて来た記憶がない。毎晩眠りに落ちれば意識も記憶もないので、死ぬ時もそのようだと想像できます。次に”自分”の意識に気づいた時に記憶がなければ? 始めなくば終わりもないと言ったのはこういう事です。
私たちは誰も望んで生まれてきたわけではない。何故なら、望んだという事は、既に存在していた証拠だからです。…そうでしょうか?記憶がないだけでは?
我々は真っ白な画用紙だった。気が付けば絵を書き始めていました。これを必死になって消し去り、白紙に戻すのが目的で生まれて来たのでしょうか? 無に帰す、仏に成るとは?
ゴータマもイエスも人の子です。神様でも仏様でもない。世に自らの教えを示したに過ぎない。一人の人間が説いた事は得体の知れない仏壇や神棚にしまって拝むようなものではなく、人間に可能な、実行できる教えでなければ完全でもなければ、真理とも言えないと思います。やればできる教え、実行すれば確実に救われる教え、苦しみと迷いの世界から私たちを解き放つための教えでなければ意味がないので私には本物とは思えません。 難解な教理や儀式など描きこみ過ぎて台無しにしてしまった絵画に等しいと思います。 そんな絵は無価値=ゴミ箱行きです。 いい絵を描けないから白紙で提出し、ここに来るまで大変な道のりだったがついに悟った。無の境地、これこそが芸術だでは通らないと思います。 ゴータマの語りかけた”家の造り手”は、こんな中身のない”戯言”は評価しないと思います。一所懸命、一生懸命に描いた絵を期待しているはずです。 家の造り手が記憶を消し去る前の自分自身ではないとなぜ断言できるでしょう。
 
読み取って頂きたいこと
サマヨエル 2009/03/07(Sat) 14:09 No.105
>(人間ダンは洞窟だったかトンネルだったかで死に、そこへセブンが乗り移ったはずです。)

そうでしたか。なんかそういう話はあったようですが、それはセブンがその亡くなった方(名前もモロボシダンではなかったような…?)への共感から彼をモデルに自身を変身させただけのものだと思ってました。

>教理をいくら追求していっても、それだけでは仏道の本質にたどりつけないように、
いくら境涯を追求していっても、仏道の本質にたどりつくのは難しいと思います。
>仏の仏たるゆえんは何なのか、その根幹を真に得なければ、真に仏と成ることはできますまい。
>書いて字の如く、人が無になると書いて仏と読めますが、この一文字が全てを示していませんでしょうか。

私には本質的ににゃっ太さんの主張は御自身の好んでおられる限られた知識をもとに創作した教理のように思えます。

>私としては人が無に帰す道を行きたいとは思いません。 ノーシスに愛がないとしばしば聞かれますし、私自身それは実感しました。ですがそれは他ならぬ仏道にも通じる事でしょう。 キリスト教においては愛は決して渇愛ではなく最も重要な事柄であり、また自己はエゴではありません。サマエル氏はアストラル界において仏教寺院にて僧侶にたいして仏教とキリスト教は互いに補い合うものだと主張し、僧侶はそれに同意したのではありませんでしたか?

で、何故私に対してにゃっ太さんが私としては人が無に帰す道を行きたいとは思いませんという話を出して来られるのかが不思議です。
当然ながら私が仏道について述べたことからは、それは人が無に帰す道などではないことがわかるはずです。
私自身はノーシスに愛がないのではなく、それを正しく実践出来ず間違ったあり方に陥ってる人からは愛が感じられないものだと捉えてます。ノーシスそのものに愛が無いと感じるとしたらそれは充分知らないだけのことではないでしょうか?ノーシスに限らず仏教なりキリスト教なり他宗教に於いても同様のことが言えるでしょう。
私は自己がエゴであるなどと主張してませんし、仏教もノーシスもそうは言ってないでしょう?
アストラル界の仏教寺院でのサマエルの話に関してですが、だからどうだと仰りたいのでしょうか?

>私たちは生まれて来た記憶がない。毎晩眠りに落ちれば意識も記憶もないので、死ぬ時もそのようだと想像できます。次に”自分”の意識に気づいた時に記憶がなければ? 始めなくば終わりもないと言ったのはこういう事です。
>私たちは誰も望んで生まれてきたわけではない。何故なら、望んだという事は、既に存在していた証拠だからです。…そうでしょうか?記憶がないだけでは?
>我々は真っ白な画用紙だった。気が付けば絵を書き始めていました。これを必死になって消し去り、白紙に戻すのが目的で生まれて来たのでしょうか? 無に帰す、仏に成るとは?

単刀直入に言いますが、仏になることが無に帰すことだという誤解をし続けている限り思考の遊びしか出来ないと思います。白紙に戻すという表現が出てくるなどというのは誤解に留まっていることの表れだと思います。
私が先のレスで述べたことはそういうことではないということが読み取れないでしょうか?

>ゴータマもイエスも人の子です。神様でも仏様でもない。世に自らの教えを示したに過ぎない。一人の人間が説いた事は得体の知れない仏壇や神棚にしまって拝むようなものではなく、人間に可能な、実行できる教えでなければ完全でもなければ、真理とも言えないと思います。やればできる教え、実行すれば確実に救われる教え、苦しみと迷いの世界から私たちを解き放つための教えでなければ意味がないので私には本物とは思えません。 難解な教理や儀式など描きこみ過ぎて台無しにしてしまった絵画に等しいと思います。 そんな絵は無価値=ゴミ箱行きです。 いい絵を描けないから白紙で提出し、ここに来るまで大変な道のりだったがついに悟った。無の境地、これこそが芸術だでは通らないと思います。 ゴータマの語りかけた”家の造り手”は、こんな中身のない”戯言”は評価しないと思います。一所懸命、一生懸命に描いた絵を期待しているはずです。 家の造り手が記憶を消し去る前の自分自身ではないとなぜ断言できるでしょう。

誤解をもとに話を進められても困ります。
ここでのあなたの批判対象はあなたが誤解により作り出したあなたの思考の中のオリジナルでしかなく実像とは違うと見受けられます。

あなたがこういった特徴のものは本物でないと述べていることには同意しますが、それに当てはまらないものに対して誤解による虚像をもとに批判しているとしか思えません。
まともに接していればそのような誤解には至らないと思いますが、どうもにゃっ太さんは充分に接してないで揚げ足取りに都合のいい知識を得るだけに留まって誤解を膨らました思考体系を構築して安住するという陥穽に陥っているのではないかと感じます。
それはそのままにゃっ太さんが批判する対象としての特徴を完備したもののように思うのですが…。
記事No削除キー


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