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心の世界との繋がり・・・ヒーリングワーク 瞑想ワーク
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  良いカルマを作って行く為の土台にする
Date: 2014-10-05 (Sun)
深層意識にある重圧されている不純物や不浄なエネルギーを生起させて解放してあげれば、

現在医学で原因不明の難病とかに対して、かなり癒されるのではないかと思っています。

心理学でも不健全な感情を取り組む事は、あらゆる病気自体から解放されるきっかけになると聞きます。

カルマが原因の病気の場合は現在医学の範疇にはないようですが、

これなどは本人のカルマの解消に設けられた試練であり、魂の向上に役立つものだから

根本的に解決するのにはそれなりに時間を要するように思います。

また想念体を開いて、負のエネルギーを解放して行く時には、

カルマが終了して行くためにプロセスが始まったと言うものかもしれません。


ほとんどの原因不明の難病病気は、想念体の中にある(カルマの巣)エネルギーだと思っています。

細胞やDNAにしたって、想念体の中にある(カルマの巣)エネルギーが作用して、

DNAが損傷して細胞が癌細胞に変異したりすると思っています。

感情を取り組む事は、生きて行く為に不可欠な事だと思います。


だけども想念体を開くのは、これはとても今の現在では難解なものかもしれません。

それなら出来る範囲で深層意識の中にある負の感情エネルギーを解放してしまうものを見つけて実践する事が良いのです。

日頃あまりおめに拘わりたくない奥深く溜めつづけた反吐がでるような、

誰にもみせる事のできない秘密が誰にもあると思いますが、

その封印している秘密がイメージと伴って出てくる不浄なエネルギーを放出していけば、

原因不明の難病や運命改善にとって、とても重要なメソットになりうるものだと思います。

本当の意味で、カルマを改善していって新たに良いカルマを作って行く土台にする事が非常に大切なのです。


  生命力の強化
Date: 2014-08-27 (Wed)
松本道別(霊学講座)の中にも記載されていますが、

自動療法 本能療法 形式に多少の差こそあれ、何れも霊道の一種たるに過ぎないと記載されています。

現在では霊道術、霊道法と呼ばれているみたいですね。

自分が知る限りでは古代から伝わる布瑠部の術と聞きました。

呪文も道具もいらず簡単に実修できるもので、初心の方でも殆どの方が成功すると思います。

霊道といってもなんだか妖しく思われますが、

憑依した霊が発動するのではなく自己の霊が発動し健康や霊道発揮の基本となるみたいです。

霊の憑依現象とかではなく自己内部の衝動の発動によって起こる運動だと思います。


霊道法はいろんなやり方があるみたいですが、霊子顕道法の方についてのやり方をいいますね。

自分の手を使って、発動するみたいです。

(例)古代道行法秘伝 大宮司朗

両手に力を込めて強く掌を圧する。

この時に何も考えなくてよいが、

「掌が震動する」と強く思い続けていると自己暗示の作用でよりいっそう震動が生じやすい。

一度で発動する人もいるが、一度で発動しなければ、何回でも繰り返し、おこなうようにする。


霊道法はちゃんとした指導者や専門家に師事されたらいいですよ。

諸刃の剣ではないんですが、「気違い運動」とも言った方もいましたからね。

でも、実際は奥が深くて、カルマの解消や霊言も出てきたりすると言われています。

一念三千ではないですが、思いと行いを正し、

内面を見つめていかないと、危険な事にも成りかねませんから、

憑依現象は掌が震動する事もあると言われていますからね。

たとえ霊道法が起こったりしても、気を引き締めて心の浄化に努めていかないといけませんね。


■ 霊道法とは、
Date: 2011-04-25 (Mon) 光のかけ橋

人間は肉体だけではないと思わせる一つかもしれません。

興味があるかたはまず、期待をせずに、霊子術を実行されたらと思います。

実習して行くと、だんだんと身体がユラユラと揺れてくるのです。

身体が動きたいままに任せてユラユラ、グルグルと動いて行きます。

霊子顕道法の中の飛動にもありますが、床から離れてて飛び上がるようになる。

その度合いが激しくなると、室内を飛び回りはじめるという激しい運動に初めはびっくりするかもしれません。

でも、徐々に激しさはおさまって行くと思いますよ。

実際はこの運動は、これがとても気持ちがいいみたいです。

揺れてくる場所は手や腰の辺りであったり、眼球や首だったりと色々みたいですね。


この霊子術は自己の霊が発動して身体の一部、または全部を震わす術だそうです。

この中に「布瑠部 由良由良止布瑠部(ふるべ ゆらゆらとふるべ)」というものがありますが、

布瑠部」は“震え”のことのようです。

松本道別(霊学講座)の中にも記載されています。

自動療法 本能療法 形式に多少の差こそあれ、何れも霊道の一種たるに過ぎないと記載されています。

他の方も活元運動なるものをやっていて「貧乏ゆすりに似てるかも〜」なんて書いていますが、

自分としては霊道と言う呼び名は妖しくドロドロしたものと思われますが、

無意識によくしている貧乏ゆすりみたいなもので(失礼)と光のかけ橋に書いています(笑)

でも、奥が深くて、カルマの解消や霊言も出てきたりすると言われています。

実際は呪文も道具もいらず簡単に実修できるもので、初心の方でも殆どの方が成功すると思いますよ。

神道系の修行法にもあるようなので、専門家や霊動法専門道場に師事される事を望みます。



  二つのものを一つ見るのが悟り
Date: 2014-08-27 (Wed)
また秋月先生はこのようにおっしゃつていますね。

自己を忘れて、万法の方から逆に自己修証される時に(悟り)の世界が開けます。

自己が世界を対象として見ている時は、自己と世界とが二つになる。

逆に万法の方から進んで自己を修証するという時には、自己が無になって、自己は万法に一如して働くわけですから、

二つが消えて一そのものが動き出してくるのです。

要するに、一つのものを二つ見ているのが迷いで、二つのものを一つ見るのが悟りなのです。


西洋思想でいう、「主観」「客観」を認識すると言うのは違います。

だから鏡(主観)に物(客観)を映すような、水(主観)に月(客観)が映るような関係ではないと言うのです。

そこでは見る真人と見られる真如とは「不二」です。

「見性」と言うときには、「見」が「性」が「見」です。

見性は不二です。

西洋思想の根底には「ニ」があります。

主観と客観が分かれたところからものを見ます。

まず、主観あって、客観を映すのです。

これを「分別知」と言います。

それに対して東洋思想は「一」いや「ゼロ」(空)を根底とします。

般若の「無分別智」です。

道元入門 秋月 龍a


   ■ 静かに耳を傾ける。
Date: 2014-08-27 (Wed)
ただ静かにすること

心を静めて耳を傾けなさい。

あなたはその言葉を聞く事になるでしょう。


「奇跡のコース」のワークを学ぶ 神の教師

レッスン125 8

神があなたに話しかけるとき、あなたが聞くのはあなたの声にほかなりません。

神が話すのはあなたの言葉です。

それは、自由と平和の言葉、意志と目的が統一された言葉です。

父と子のたったひとつの心には分離もありません。

今日は、あなたの真の自己に静かに耳を傾け、神はけっしてご自分の子をを置き去りになどなさっていないし、

あなたも決してあなたの真の自己を置き去りにはしていないことを教えてもらいなさい。

神の教師 (『奇跡のコース』のワークを学ぶガイドブック5)
[単行本(ソフトカバー)]
香咲弥須子 (著)


  正しい坐相をねらって
Date: 2014-06-28 (Sat)
黄檗禅師は思念をやめ思慮なくせば、仏は自然現れると説いていますね。

精神集中に集中と言う言葉が妥当かどうか疑問ですが、

精神集中と言えば、一生懸命に目の前にある壁を睨み付けている事が精神集中だと頑張っていた方がいました。

実際は精神集中している自分をも対象をポンと捨てないと開けてこないのです。

これは壁を睨み付けている頑張っている自分をも捨てないといけないと思います。

禅的には正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと言う事になるのではと思います。

また、マントラを捉えている方は、雑念を捨てて、マントラに成り切る事だと思います。


精神集中に集中できている自分をも対象をポンと捨てないと開けてこない

集中できている自分もポンと捨てないと、悟りの手前までともう少しと言うところまで来ている状態なのに

元のもくやみになってしまいます。

それには神仏のご加護・師の恩恵なくして到底達成はできないと何回も自分は言っていますが、

体験すればきっと理解ができると思いますよ。

自分一人では到底達成できないと後からつくづく思い知らされますね。

これは宗教だからと拒否反応をしめす方もいると思いますが、そういうものだとしか言えません。

正しい坐相をねらって、思いを手放し雑念にふりまわされず、続けて行くと、

普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、意識の境界線を越えて、

最後に一瞬の飛躍があり、主体と客体の合一な体験をする事になるかもしれません。


  求道心が目覚め(悟り)を開かせるのです。
Date: 2014-05-19 (Mon)
[137] 素質の劣っている人でも悟れるか? Date:2011-05-21 (Sat) 光のかけ橋

弁道話の中に道元禅師はこう言っています。

インドや中国のような文化の優れた所に住んでいる人間は、悟る事ができるでしょうが、

国土も素質も劣った人でも悟る事ができるでしょうかと言う問いに、道元禅師はこう言いました。

人は素質の劣っている人も優れた方でも、区別なく等しく悟る事が間違いなく出来ると言うのです。

仏法伝授する事は本当に悟った人を師匠にとせねばならない。

文字のせんさくに明けくれる学者は、師匠とするには不足である。

それでは盲が大勢の盲を導くものようなものです。


お釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされた

それを見て摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものですが、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったのです。

この心から心へと、直接体験によってのみ伝えられ

師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならないと言うものです。


本山先生は言っておられます。

悟りに達するには、一切への無執着と、行の極で自分と神仏に全託する事こそ肝心

この対象になりきった自分をも対象をもポンと捨てられるかどうかに、悟りが開けるかどうかに掛っているのです。

精神集中の対象になりきっる程に集中ができているのに、

その集中して対象になりきっている自分をも対象をポンと捨てられないと、

悟りの道程の九分九厘迄行っていて、定から出てくると又元の処に戻ってくる。

悟りの境には達しない。

このポン自分をも精神集中の対象をも捨てる事こそ、

乾坤一擲(けんこんいってき) というか、悟りを開ける一番肝心の所です。

ところで対象になりきっている自分とその対象をポン捨てる事、

そして一躍して悟りの境に入するには、人間だけではでない。

そこに神仏の力が加わらねばできない。

神仏に自分の総てを託する。

任せねばなりません。

その時神様が、その人の自己の殻を破り捨て、高い悟りの境に上げて下さる。

本当にそこまでなりきっているか、菩提心がどれだけ強いか、それは神様しか解らない。


心の確立と霊性の開発


  ■ 意識が全てを引き寄せる
Date: 2014-05-19 (Mon)
被害者が加害者でもあり、加害者が被害者でもある。

また事故や偶然はないと言う事みいですが、意識が全てを引き寄せる

被害者と加害者がドラマを演じて、相互関係やつながりシンクロニシティによって

創造した現実が鏡を通して、見えて来るでしょうかね。


もし殺す方も殺された運命にあったとして、また殺された方が今度は殺す側にまわっても

変容できるドラマを演じて、バランスが取れる事になるのでしょうかね?

被害者は殺される運命にあったとして、もしかしたら加害者に殺させないように、させる事もできるかもしれません。

本来なら殺される運命にあってそれによってバランスがとれるところ

被害者は殺される運命にあったのだけど、加害者に殺させる事をさせないで

その出来事を再構築でしてバランスが取れる事になるのかもしれません。

これなどは変容できるドラマを演じ事ができるかもしれない

そうやって成長していくとこのようになるのだろうか?

体験というならば、合格不合格のない世界だと思っています。

体験としては、何も間違った体験はない。

誰もが変容できるドラマを演じ事ができるかもしれない。


またイエスとユダの関係は、イエス様はユダ裏切りに逃げる事もできたはずです。

もしユダが裏切らなければ、イエスの十字架はなかったことになってしまう

また裏切させないようしようと思えばできたかもしれません。

それをイエス様は受け入れたのです。

もしユダが裏切らなかったらあの物語は完成しなかったと思います。


パシャールの書物の中に預言者エリヤと洗礼者ヨハネとイエスとユダの三人の関係が、

同じく洗礼者ヨハネとイエスとユダ三人の関係重複しながら表現されていたのです。

この二つの三角関係は同じ意識から発生したものです。

エリヤは町で叫びながら皆さんの言う予言をし、それから行われるドラマがスムーズに演じられる

よう事前に準備をしていました。

大いなる全てからの分離というドラマの中で、その時代の人々が創造したいた元型のエネルギーのすべての

異なる側面を映し出す為に必要な鏡となるドラマの幕を開けるために

ドラマの幕を開ける為に、




http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

神々の故郷とその神話・伝承を求めて

小澤圧克彦

13、イスカリオテのユダ

 このユダというのは、イエスを裏切ってユダヤ教の神官たちに売り渡して十字架刑で殺させたその張本人としてキリスト教世界では「悪人の権化」のように扱われています。

しかし、表ではそうなのですが、実はその「イスカリオテのユダ」を巡っては裏では昔から議論が絶えなかったのです。

というのも、少しでもものを読める人なら、なぜユダは裏切ったのか疑問に思ってしまうからです。

現行の『聖書』の四つの福音書はいずれも、ユダが裏切ったその動機や理由について納得に足る説明をしていません。

もちろん何も理由をいっていないわけではなく「金で売った」ということになっています

(この説は「マタイ」の伝承で、「マルコ」もおなじ筋道と読める。しかし、「ルカ」と「ヨハネ」ではユダにとりついた「悪魔の仕業」とされる)。

しかし「金ほしさ」であったとするなら、ユダはすぐに後悔して金を返しに行って首を吊ったとか(「マタイ」)、どうも釈然としません。

「ルカ」や「ヨハネ」のように「悪魔がとりついた」などという言い方は「理由がさっぱり分からん」といっているのに等しいです。

さらにここから、何故イエスは裏切を避けなかったのか、とも思われます。現行の福音書の語るところでは、

イエスは裏切られることを事前に知っていて、それがユダであることもはっきり示しており、

あまつさえユダに向かって、「あなたがしようとしていることをすぐにしなさい」とまで言っているのです(「ヨハネ」13.27)。

これは全く釈然としません。裏切りの犯人を知っていて、しかもそれを避けようとはせず、むしろ「促した」というのでは、

「わざと裏切らせた」としか読めないからです。


さらにもっと突っ込むと、かりにもしユダが裏切らなければ、イエスの十字架はなかったことになってしまう、とも言えます。

そうなると「復活」もなくなって、イエスの神性は消し飛んでしまい、今日の正統キリスト教は土台から崩れ去ってしまいます。

まして後のキリスト教ではイエスの十字架での死を「人類の罪を背負っての贖罪」などと説明するのですが、これは何なのか、ということになってしまいます。


要するに、イエスが病気や老衰で死んだ、となったら「人類の罪をしょって死んだ」という「人類のあがない」がなくなってしまうわけで、

どうしてもイエスは「十字架の上での非業の死」をとげなければならない、ということになるのです。

つまり、イエスが「キリスト」となるために「十字架刑」は「絶対必要条件」であったということです。

そういうことになると、この「絶対必要条件」は意図的に準備されなければならない、ということになるわけで、

これはイエスの真実を見抜いていた者がイエスの指示の下でやったということになるであろう、という筋道になるわけでした。

 こういうことになると、「ユダは裏切りの極悪人」という通常の解釈はどうも納得できないと思われても当然です。

そこには「何か」があるのではないか、と思うのが普通です。 こうしてさまざまの解釈がされてきたし、現在もされているのでした。

それは表だっての神学論争とはなりませんが(やったら異端とされかねないから)、さまざまの文学や演劇に描かれてきました。

典型的なものとしてロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』などがあります。

そこでのユダはイエスに献身的な愛を捧げている弟子でした。

ボブ・デュランの「神が味方」という歌にも「君はやがて悟るだろう、イスカリオテのユダには、神が味方していたのだと」という一節があります。

 こうしたユダに関わる正統教会の見解に逆らう見解をまさに支えているといえるのが最近復刻されて有名となった『ユダの福音書』になるのです。


ユダの福音書
 ここでのユダは、12弟子の中でも唯一「真実のイエス」を理解している最高の弟子とされています。

ほかの弟子たちはイエスを理解できず、イエスの言葉に腹を立てまともにイエスの前に立つこともできなかったのに、

ユダ一人だけが立つことができたのでした。そしてイエスの来たところ、つまり神の国を言い当てたのもユダだけでした。

そのためイエスはユダだけに秘密の教えを授け、その上でユダに「裏切りを要請」し、自分の故郷なる神の国への帰り道を用意させることになるのでした。

そして、イエスはユダに向かって、「おまえは皆にそしられ、迫害され、死んで他の者に12弟子の地位を明け渡すことになるのだが、

すべての弟子を超えた存在となるであろう」と約束するのでした。

 これなら、ユダの裏切りは納得できます。上に疑問としてあげておいたことがすべて解決されるからです。

それにも関わらず正統教会はこの見解を拒否するばかりか、これを憎悪してきました。

180年代の有名なキリスト教護教家であるエイレナイオスは口を極めてこの『ユダの福音書』を攻撃し、さらに375年にはエピファニオスもこの書を攻撃しています。

ということは100年代から400年代にかけての初期キリスト教の時代、この書は多くの人たちに読まれ影響を与えていたということです。

だから正統をもって任じている派は激しくこれを攻撃し、そして、結果的に勝ったというわけでした。







 ■ お金持ちと宗教の職業としてのお坊さん

Date: 2014-04-13 (Sun)

実家は浄土真宗なのですが、親鸞上人さんや浄土真宗の事は解らないのです。

解っているのはお金持ちと宗教の職業としてのお坊さんぐらいしか思っていませんでした。

どうもあまり自分の周りや友人などは、あまり良い印象は持っていないようです。

友人が学生の頃に〇〇〇の出入りみたいだと言っていましたね。

本山に上がる時などは、〇〇〇の出入りのようなの黒塗りの高級車ペンス

が行列して通っていたような事を言っていました。

自分の祖先の宗教の事を、まったく知らないでは済まされないから

これからは、祖先の宗教の事を少しずつ理解できたらと思っています。


「難異抄」の悪人正機説には、善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をやと言う始ります。

その意味は現代語に訳すと善人でさえ往生できる、まして悪人は言うまでもない。

常識的には悪人でさえ浄土に往生する事ができるのだから、

まして善人はいうまではないと考えると思いますが、

親鸞は逆説な事をいっているのです。

悪人のいう方は、自分の事が悪人だと明らかに自分の事が見えていますが、

善人の方は、自分がこれまで正しい、何ら悪い事を一切していない。

今まで正しく生きて来たと、自分が善人だと思っています。

まだ自分の事が見えてないのです。

自分の事がちゃんと見えて、自分は悪人であると見える事こそが、

正しい人間の姿であると親鸞上人はいいたかったみたいです。

自分の姿が明らかに、正しいくみえた方だけが救われる

輪廻から出る事ができると説いたようです。



http://nobunsha.jp/

千年の言葉を読む「言の葉庵」引用

[原文]
 一。善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。

『歎異抄』梅原猛 校注・現代語訳 講談社 1995.5

[現代語訳]
 一 善人ですら往生をとげる。まして悪人が往生できないことなどありましょうか。しかし世の中で普通は、悪人であっても往生できる、まして善人が往生できないはずはない、といっています。一見こちらの方が理屈にかなうようにも思えますが、本願他力の本旨に背いているのです。つまり自身の力で善いことを行い努力する人は、ひたむきに他力を頼る心がありませんので、阿弥陀様の本願にかなわない。それでも自力の心を捨て、他力におすがりもうせば、まことの極楽浄土に往生できるのです。
多くの煩悩にとらわれているわたしたちは、どんな修行をしたとしても生死を離れることなどできません。阿弥陀様がこれを憐れみ、お立てくださったのが、この本願。悪人成仏のためのものだから、他力にすがるしかすべのない悪人こそ、本来の往生の対象なのです。これにより、善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おっしゃられたのです。

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